2011年4月30日土曜日

再開は御酒と笑顔で

一年ぶり、という大まかな口実は。
一年ぶりを越えて久しぶりの人とも会えたりする。


たくさんの人と会っている。
スペインから帰って来てから。


元気だから会えるが。


スペインの話など殆どしない。



今最近の話ばかり。
いいと思う。

震災の話が出て来ないことはない。


春という時期は、酒席の多い時期だが。
今年は色々世間が渦を巻いて、落ち着かなかったせいもあり。
何か、酒を飲んでいても、心のどこかの部分が酔えない。

酒は、物理的にはひとりで飲むものだが、実はひとりで飲んでいないことが多い。
ひとりで飲んでいてもそうなのだ。
それが最も分かるのがひとり飲みだから、手酌の会会長をやっている(笑)




そして、明日は、なんか凄く楽しみな酒が富士の麓で。
その詳細は後日。

2011年4月19日火曜日

散歩は西向と長歩で

こゆきが16日で7歳。


この前はマドリードで祝った。

最近気候も良くなり、こゆきの散歩が長い。
今日は2時間よ!と連れ合いが。


そして、帰って来てから。
渡西前に行かなかった道に行きたがるのだ。
それも西に向かってどんどん。
ひらすら。


これは間違いなく。
マドリードを探しているな、と。
…連れ合いと物語を作って楽しんでいる。


2011年4月18日月曜日

悲哀は局所と普遍で

四国の母から送られてきた実家の庭先のチューリップの写真。
春が来た。
暖かい。


映像を見て、美しいな、と思う。
そして、東京のベランダでも咲いたチューリップを思う。

午後から用事があったので、午前中、井の頭散歩に。


春が来た。
暖かい。



春の色に満ちている。


感情の質を問えるとしたなら。
母親のチューリップも、井の頭も、春の喜びは同じだ。

でも、残念ながら僕らの「在り方」というのは局在しかしないので。
現代を司っているように見えるメディアがなければ。
その場を喜んだり、その時を悲しんだりすることしかできないのが本当だ。


舞台やスポーツ観戦の生と中継と、録画放送の違いの議論と重なってくる。

悲しみや喜びは局在しかし得ない。
そして、それらの質の相違は恐らく問えない。
悲しみに上等下等はないし、喜びに善し悪しはない。
あると考える場合、恐らくそれは感情を引き起こす対象を品定めている。


僕らは、頑張っても頑張らなくても、大いにそこにいる、あることしかできない。
メディアの在り方は僕らの在り方を随分と惑わせてくれる。

2011年4月16日土曜日

景観は電線と残念で

東京の空も美しい。
…はずなんだけど。


こゆきの散歩中にも。
はっとする色や、建物の角度と空の角度と。

でもいつも思うのが、電柱と電線がなければな。
ということ。


本当に残念。


東京の空だってそんなに狭くはない。


その辺の余裕がいつもないのが、東京かもしれない。


節電に伴い、電線も節線して行けないかな。

2011年4月4日月曜日

夕餉は目刺と大根で

こゆきのトリミングの後食べたお昼の時間が遅すぎたこともあり。
連れ合いが夕食はダイエットも兼ねて田舎からのネーブルだけでと。

それはそれでよい、と。


ということで残っていた大好きな目刺(シシャモだけど)と。
もっと大好きな大根おろしで。


これもスペインでは出来なかった贅沢。
10分弱で準備完了(笑)


ニュースを見て連れ合いと話しながら。
横にはいい匂いのしない卓にたいへん不満の…


僕は大根おろしをつまみにした後の〆のこれが好きで。


大根おろし掛けごはん(笑)
貧乏臭いと思う事なかれ…あ、思ってもいいんですけどね(笑)

デザートはもちろん贅沢にこれ、でした。


ごちそうさま。

…これ、やっぱりスペイン人の友人が見たら…
寂しく思うんだろうねぇ(笑)
僕には今、最高の夕餉なのだけど。

春先は暖気と寒気で

今日は寒かった。
昨日までは割とポカポカ陽気だったので。
いっそう寒く感じた。

数日前に一分も咲いてなかったうちの南側のお家の庭桜も。


この数日で八分くらいになっていたが。
この冷え込みでまたしばらく止まるかな。


四国の母校の庭の桜はもう随分と咲いているような写真を。
恩師が。
同じ種類の桜の木も、土地によって、咲かせる花の色が違う。
人に同じ。


職業柄、見えないもの、あるいはひとつかそれ以上裏にあるものを読むクセがある。
ちょっと、いや随分とヒネくれて映ることもあるだろうな。
しかし。
花の美しさのような、目に見える事実を素直に受け止める心も併せ持ちたい。

Ver es creer.
百聞は一見に如かず。
「聞」には、言葉や人が大事なファクターだ。
「見」はそれがなくても可能である。
ただ、テレビやその他のマスメディアを通した「見」は「誤見」になることも多い。
いつも自分の目で見たことを信じたい。


心の目は、空間、そして時間をも通すことが可能だ。
よく心眼などという。
僕の言葉では、目で見たほどに鮮やかな想像力、だ。
間違いのない想像力。
豊かに持ちたいもののひとつ。


「聞」を極限まで減らし、心眼で生きることは可能か。
「犬」は結構それに近い生き方をしてる。
と思うけど…飼い主バカかね。

…あ、ブログのタイトル。
春の新装開店で。
「x は y と z で (x, y, z 共に漢字2字)」ということにします。