2010年4月19日月曜日

好感と嫌悪

いい、悪い、は始めからある。


昔、日本の指導教官に、30くらいになったら物事の「好き嫌い」をはっきりさせるべきだ、という風なことを言われて。
生意気な二十歳そこそこは、好き嫌い、は「生活を生きやすくするための単なる概念的バイアスだ」といきがってた(笑)
つまり、好きなんだから、という絶対的エゴで、それを嗜好する説明を省き、嫌いなんだから、というこれまた絶対的なエゴで、それを拒否する説明を省く。
僕にはあまり好き嫌いがない。
生理的に…、という言説とは、少しちがう。
もし、これ(生理的に…)が入るとするなら、それはただ、皆の前で「『好き嫌い』が言える」、というだけの話だ。

いや、説明する体力の話は別にしてね(笑)
体力がないから、好き嫌いがはっきりしてくる、というのはあるかもね(笑)

もしくは、日本的な、年功序列的な意識で他人に、好き嫌いを分かれ、という。
これには今でも反抗したいね(笑)

そして、「いい、悪い」は「始めから」あるのである。
これがはっきり見える様になりなさいよ、30くらいになったら、という話であったのか、あの教授の話は。


言葉が不自由だと、あるいは異質の世界に居ると、この「いい、悪い」の感覚が冴えてくるのは何故だろう?
「いい、悪い」は言語外にある、ということなのか?
前から漠然とは引っ掛かっていたが。
ちょっと、いいテーマを新たに確認した感じ。
仕事とは別ですけどね。