2012年10月22日月曜日

秋空は薄緑と芳香で

ふつか続けて休めたのは何ヶ月ぶりか。
小金井公園まで行ってみた。
秋桜、コスモスが満開だった。


もう多くの人が気付いていることだと思うが、忙しさというのは「忙しい」というだけの絶対値で計られる。
たくさん忙しくても少し忙しくても、その忙しさは恐らく変わらない。
多くの感情や感覚がそうだと思う。
せいぜい「たくさん」や「少し」という言葉を付け加えて差を付けようとしているだけだろう。時間が足りない、というのは確かにあるが、瞬間瞬間の忙しさの絶対値は変わらんでしょう。
というように抽象概念ってスケールが外にないと僕らは、絶対値しか保ってないように思う。
だからちょっと忙しくても、たくさん忙しくても、「忙しい」。
ちょっと悲しくても、たくさん悲しくても、「悲しい」。
悲しさは、涙の量で計ろうか?悲しんでる対象の重大さで計ろうか?

いい気候なので、一日中、散歩をする犬が絶えない。
通りから聞こえてくる吠え声をチェックにいく、うちの犬。


見張りも大変だな。
忙しそうだ。


2012年10月20日土曜日

時間は反復と逸脱で

おー、随分振りの更新。
少しペースを戻そうと思い。

春からNHKのラジオが始まり、それに追われながら時間を過ごした。
7月にその収録が終わった頃から、肺癌を患っていた母の容態が悪化して、8月に逝った。
喪主を務めたので、身内の葬式の後の大変さに振り回されながらあれからはや2ヶ月か。
ラジオは最後まで聞かせてやりたかったが。

故人は記憶に生きる。
いや、人の記憶にしか生きられなくなるのが故人だ。
人の生を振り返ると、振り返るたびに違うページがめくられる。
というのがこれまでの経験だったが、最後の看病が壮絶だったので、まだ健康な頃の母の陰があまり思い出せない。
本の後ろの方にしか手が伸ばせない感じだ。
もうちょっとストレッチしたら、いろいろ思い出してもくるかな。


秋が始まって空気の色も変わってきた。
田舎の山はみかんの山吹色に染まる季節だ。

2012年6月9日土曜日

祈りは透明と鳴声で

実家は海岸と山に挟まれたわずかな土地にある。
山の斜面はみかん畑で、段々だ。


その実家から波止場に出て振り返って山を見上げた一角にうちの集落の墓場がある。
実家に帰るとかならず一度は墓参りをする。
今回の帰省でも東京に戻る直前に墓参した。

あれはもう40年近くも前になるか…
うちの実家の周辺はほぼ皆、みかん農家で、うちも例に漏れず、当時は専業だった。
都会の鍵っ子のような訳にもいかず、昼間はよく近所のトシばあちゃんの家に預けられた。
年寄りが家を守っている家庭が近所にあると、よくそこに預けられた。
年寄りと言っても当時、まだトシばあちゃんは50くらいだったろうな。
預けられる、といってもみかんの収穫期になるとほぼ丸一日トシばあちゃんと過ごすこともあった。
40年前のおぼろげな記憶の中に、トシばあちゃんが鮮明に映っている心の写真が何枚かある。

数週間前、そのトシばあちゃんが亡くなった。
あれほどお世話になったにも関わらず、忙しさを理由に今回の帰省まで手を合わせに行くことができなかった。
近所のおばあちゃんだったのだが、家族同様の熱を持った共通の思い出がある。。。これが田舎という空間だ。

墓場まで山を登って行き、まず実家の墓を見た。
トシばあちゃんの墓はうちの墓のとなりにある。
それから、トシばあちゃんの入っている墓を見た。
とそのとき、右手のみかん原の方から濃い緑色の手のひらほどの鳥が、すうっと近くの木の枝のところまで飛んできて止まった。
そして僕の拝んでいる横で、キューキューと高くも低くもない声で鳴き始めた。
僕が手を合わせて墓に向かっている間、キューキューキューキューと鳴き続けた。

何を考えるともなく、
「あぁ、トシばあちゃんが会いに来てくれたな」
と心が感じた。

キューキューキューキュー…
キューキューキューキュー…

僕が両手を外して、その鳥の方を向いてからもしばらくの間、そう鳴き続けた。
色々な思い出と潤んだ目で、山の斜面から海を見下ろしたとき、その緑色の鳥は、傍らから海の方へ向かって飛んで行った。
もう鳴くのは止めていた。


あぁ、トシばあちゃんが会いにきたのだ、と改めて鳥の行方を目で追った。
トシばあちゃんに会えて本当によかったなぁ。