2010年6月22日火曜日

表面と泥酔

虫の知らせ、というのはある。
僕らは個人個人で生きているように「表面上」見えるが、根っこはしっかりひとつだからだ。
どこかで何かが起こると、そして、それが自分のルーツ(根っこ)に関連するものだと、ビビッときて不思議はない。
むしろ来ない方が僕に言わせれば不思議なくらいだ。

僕らは「言葉」を始めとして「表面上」に惑わされることが上手になった。
むしろ、「表面」しかない、くらいになった。
根っこを感じることが不得意になった。

しかし、単純な話。
他人が泣いていたら、悲しい。それが自分の身の回りの人だったらそれだけ悲しい。
これは、「言葉を聞いているときに相手が使っている脳の部分と同じ自分の脳の部分が活性化される」というような、「科学的」説明を受けるまでもないことだ。

ほぼ日で連載された野村潤一郎の「いきものの先生」の中で犬と飼い主のテレパシー(『根っこ』を表すためにいろんな表現があるものだ(笑))の話があった。
おぅ、これもそうだそうだ、と。
なんで、僕らはプリミティブなことが分からなくなったのだろう。いや、分かろうとしなくなったのか。
色んな難しい話は分かるのにね。

で、先日。
連れ合いがうまい具合に気付いて。
こゆきと僕らのつながりを。
この時間を考えると僕が建物に入る前からもう分かっている。
うちは建物の4階にある。
流石、言葉を覚えようとしない彼らはこれらのプリミティブな感覚が冴えている。
耳がいいとか、鼻がいいという、所も含めてね。



あ、途中から出てくる酔っぱらいは無視して下さい(笑)