2011年1月23日日曜日

存在と出会

「在る」という事態と「会う」という事態は等価だ。
「在ら」なければ「会え」ないという包含や前提の概念は置いといて。


他の存在を知ることで、初めて存在に気付いただろう。
自己の存在に対する認識とは、事象の歴史の中で極めて新しく曖昧なものだと思う。
しかし、それが絶対的なものである、と考える仕方は未だ魅惑的であり続ける。


僕が「言葉を失いたい」という欲求に随分前から取り憑かれているのはこんなことのせいだ。
言語の魔法のひとつ。
「自己言及性」。


僕には自他含めて「在る」ことがとても苦痛で疲れる瞬間があるが。
それは「会う」ことにとても似ている。


言葉がないとき「自己」はどうあり続けるのだろう。
「他者」は他者で在り続けるのか。
こゆきの目と耳と鼻は何を捉えるのか。
そもそも言葉無しで他者と「会える」のか。


言葉の論理で追い続けると、大きな穴があいていて。
その穴に落ちそうになるとき、その穴の底から覗いているのは。
「私」という絶対一人称の言葉なのか、私には分からない私の顔(映像)なのか。