2011年4月18日月曜日

悲哀は局所と普遍で

四国の母から送られてきた実家の庭先のチューリップの写真。
春が来た。
暖かい。


映像を見て、美しいな、と思う。
そして、東京のベランダでも咲いたチューリップを思う。

午後から用事があったので、午前中、井の頭散歩に。


春が来た。
暖かい。



春の色に満ちている。


感情の質を問えるとしたなら。
母親のチューリップも、井の頭も、春の喜びは同じだ。

でも、残念ながら僕らの「在り方」というのは局在しかしないので。
現代を司っているように見えるメディアがなければ。
その場を喜んだり、その時を悲しんだりすることしかできないのが本当だ。


舞台やスポーツ観戦の生と中継と、録画放送の違いの議論と重なってくる。

悲しみや喜びは局在しかし得ない。
そして、それらの質の相違は恐らく問えない。
悲しみに上等下等はないし、喜びに善し悪しはない。
あると考える場合、恐らくそれは感情を引き起こす対象を品定めている。


僕らは、頑張っても頑張らなくても、大いにそこにいる、あることしかできない。
メディアの在り方は僕らの在り方を随分と惑わせてくれる。