2011年8月8日月曜日

言葉は絶望と日常で

言葉を失いたい、というブログを書いたのはいつだったけな、と思って。
検索したら、あ今年だったかと。
このはかない願望は随分昔から、妄想訓練として持っている。


大体、社会人相手に授業をするときは、自分よりスペイン語ができる人が来ることを想定して案を練る。
そうすると少しだけ余裕をもった感じで応対ができるように、僕の場合は思う。
自分の本来の知識(?)を人に伝えられることなど、そうやすやすとはできないはずなので。
来た人々のスペイン語の経験に僕のスペイン語の解説がどれだけ馴染むか、ということだ。
ギリギリまで教材を考える。焼き直したり付け加えたり、全く変えたり。

こんな風景の中、頑張るのだけれど、まぁ冷や汗ばかりかいている。

社会人のクラスで得るものは多い。
スペイン語の文法を学ぼうとしてくるから、みんなが。
試験に受かるためや、単位を取りにだけくる人はひとりもいない。
目的が明確でないと、効率は落ちるばかりだ。
その中で。
あぁ、この事象をこう捉えていたんだ、とか、あ、そういう解釈もあるっけな、とか。
言葉との格闘の痕跡をきれいに見せてくれる瞬間が沢山あるからである。


しかし、それにしても。
教えているものはなんなのだろうな、といつも思う。
伝わるはずのない経験、でもなければ、それに基づいた知識でもない。
表面上シンクロした知識の一部とは言えるかもしれないが。
やはり、誰かが言っていたように、結局、スペイン語に集中する場を構えているだけなのかもね。僕らは。
自習の準備をしてあげているのだ。
ならやはりいい準備をせねば。


言葉を失ったときも、そしたら。
僕らは「在る」というだけで学びあえるのかもしれない。