2023年9月9日土曜日

不定冠詞のフィクション論

スタジオジブリの「君たちはどう生きるか」を観た。僕の周りでも評価は様々、また極端だったのでどんなものなのかなと興味深々で観てきた。
黒澤明の「夢」を思い出した。内容に関してではない。そのフィクション性についてだ。

手書き風のエンドロールをぼおっと眺めながら考えたことを少しまとめてみようと思う。
文学的なフィクション論ではなく、語学研究者のそれということで。ただ、哲学や文学理論と言語学の理論はお互いをなぞり合っている部分も多いので、あながち見当外れでもなかろうと想像する。
物語であるから言語を考えるよりも立体的ですね。

確かにこの映画は宮崎駿の脳内以外、現実社会に対するリファレンス・ポイントが少ない。もう参照するにはぐずぐずになってしまっている先の戦争などという点を除いては。そしてその戦争はきっかけであって、この映画のメインテーマではない。
場所も東京と疎開地。登場人物も少年と少女と親、その他。特殊さはない。

我々は物事、物語を理解するときにいくつか頼りにするポイントがある。大雑把にいうと、物語によって示される対象である物語外的存在と論理性をはじめとした物語内的存在である。
外的存在はあればあるほど皆の共通理解が明確になり、あれはこのことだよね、といった具合に、皆が物語中の物や出来事については似たり寄ったりの解釈を持つ。また外的存在が無ければ参照するのは自分の頭の中にあるはずの、物語中の表現物となる。それが頭の中に無ければ理解不能となる。
また、内的存在、論理が明確だと、あの結果がこうだよね、とか、あれはこの結果の伏線だったんたよね、となり、内的存在が薄い場合はより解釈が個人に任される程度が強くなるので、詩的になったり、抽象画的になったりする。

映画を見ていて、良かった、わからなかった、面白かったけど意味不明、などなどの周りの評価を思い出し、ああ、いつも考えてる冠詞の性質とパラレルに考えると面白いなと思った。
これを冠詞の機能と並べるとこんな関係になる。

外的存在を確認する定冠詞

the apple  →  フィクション的には『こんな話ですよ。分かるでしょ』

受け手と現実を共有する意志が作り手にもある。
実際にあった史実や事件を題材にして作るフィクションなんかが最も分かりやすい定冠詞フィクションである。よりノンフィクション側に寄る。
共有する物語が背景としてあり、皆がその原因や結末を知っていることもある。それが物語の一部でも全体でもよろしい。
外的存在感がマシマシな感じが司馬遼太郎で、外的存在感はあるけど控えめな感じが池波正太郎、とか。二人ともなんちゃら太郎だな。

外的存在を意識させず、受け手の脳内にある対象物を想起させる不定冠詞

an apple  → 『こんな話考えたんですよ、こんな話あってもいいよね』 

ストーリーとして成り立っているが、作り手と受け手の間にそれを共有させる現実を設けない。受け手の脳内を主に参照させる表現である。
内的存在、論理がしっかりしていれば、話の筋や顛末は理解できるが、現実との接点が薄い。観る人によって解釈が変わる可能性が多く含まれ、場合によっては全く異なる感想が生まれる。また、受け手である観察者の文化的背景の違いが大きく影響し、全く違った物語になることもある。
りんごは赤くならない地域もあるし、雪は降らない地域もある。

元々宮崎駿のジブリアニメには不定冠詞感が強い。むしろそこが受けてきたポイントとも言える。僕はスペインで初めて見たが、«Ponyo bajo el acantilado» ポニョなんてだいぶ今回のに近いなと思う。

不定冠詞感が強い中に強烈な固有名詞、トトロやポニョや個性の強い主人公の少女たちが出てくるのでその定性がグンと際立つわけだが。

「君たちは…」はまさに総不定冠詞的フィクションだったな、と思う。固有名詞が出てこない。
ただひとつ、着想的発火点は物語中にも登場する吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」であろうから、コペルくんとその環境が下地になっているかもしれないのだが、当のコペルくん自体が青少年に向けた啓蒙書の登場人物であることを考えると、もはや不定冠詞的だ。また実際、同世代の少年が主人公であることと時代背景以外はほとんど関係がないと言えよう。

外的存在も内的存在も希薄である無冠詞

apple   →  『僕の言いたいことを一言でいうならこんな感じかな』

無冠詞的フィクションもある。同じ無冠詞だけど固有名詞ではない。
作り手がそのストーリー性をわざと明確に語らない形式だ。だいぶ詩的になるだろう。
赤くまるい、甘酸っぱい食べ物。固め。

もちろん、他のすべての事象と同じく、フィクション感はグラデュアルに連続してるのでどこかで明確にこちら、という分割はうまくいかない。
だからこそ物語には無限の可能性があるし、フィクション性以外にも様々な手法を持ち込むことで形を変化自在にする。創作の世界で一時流行った手法はまさにこのフィクション性自体の一部をメタに壊していく作業だったに違いない。もちろん様々な壊し方が現在も実験中なのだろう。

上とは全く別の重要な感想としては、宮崎駿の作画技術の極みがあると思う。素晴らしい。カツカツした動きのなかのズワッとした滑らかさ、あるいはその逆の、あれだ。

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