2010年7月23日金曜日

理解と経験

言葉には形式と内容がある。
ごく簡単に言うと、その場合の形式とは、音声や文字で、内容とはそれらの言葉が表す意味、言葉によって皆が理解している「あれ」だ。


意味、は本当に難しい。

またまたごく簡単に大ざっぱに言ってしまえば。
「意味」とは話者同士の経験の共有、あるいは照応、とも表現できる。


では日常、明確に体験できない言葉の意味はどうなるんですか?
例えば、概念、の「正義」とか「愛情」とかいった抽象名詞は?

これは多くが「言葉でもって」言葉の意味を体験する。
つまり、本で読んだり、人との話の中でその言葉を聞いたり、メディアできいたり。
そして、ある特定の状況や、自分の心や頭の中で、ぼんやりと、じんわりと感じている感覚とその「言葉」を勝手に結びつけて、その「言葉の意味を理解しようとする」。
「意味を理解しようとする」というのは、繰り返すが、他の人と経験を共有した、あの人はこの言葉でこの感覚のことを表現しようとしているのだ、と自分が納得すること。

だから、「正義」とか「愛情」とかいう言葉は、形式(音声や文字)は共有されていても、意味は殆ど各自が勝手に定義していると言ってよい。
「リンゴ」と言って、種類や色は様々であれ、リンゴを差し出すことは出来る。
「正義」と言って無理に差し出そうとすると、大体いい加減な、他方から見ると「悪」であるということになりかねない。
近代の歴史をみれは歴然で…。


「わたしはお腹が痛いのよ」
こゆきは下痢をすることでしかそれを表せない。
今回発見したのは、暑いときと同じように舌を出して暑くないのに、ハァハァ、やってるのは「苦しい」という彼女の言葉である、ということ。
そして、下痢をする様を他人には見られたくない、という彼女の行動。
僕が席を外したときにだけ、する。
だからハァハァしてるときは少し居なくなってやればいい。


経験でしか紡げない彼女達の「言葉」は理解してやると本当に純粋だ。
「正義」や「愛情」なんていう抽象概念が本当に低俗に思えてくる。
そして、反対に、動物であれ人間であれ、一緒に同じ経験をする、ということの大切さも見えてくる。
言葉は、同じ経験、同じ生活の上で本当の力を発揮する。
頭だけでこね回した言葉は、危険である。
言葉以前の言葉を大事にすることだなぁ。

と今回のこゆきゲリピー事件で考えたこと。

1 件のコメント:

  1. つきつめれば、言葉は自己主張の道具そのもの。
    感性を共有して自然に表現される言葉は幸福感を呼びます。
    問題は伝聞や机上の知識に由来する言葉を発する時ですね。
    客観性を帯びているだけに、正当性があるように錯覚してしまいます。
    気を付けたいですね。

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